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次世代の革新的製造業「梅田工業株式会社」 クリエイティブな人材が活躍できる環境を整備する

梅田 英鑑Umeda Hidenori

梅田工業株式会社

代表取締役社長

頑固で破天荒。「俺はロボットじゃない」と父親のやり方に反発し家を飛び出す

梅田は姉2人、弟1人の4人兄妹の長男として生まれ育った。教育に熱心かつ厳しかった両親は、ピアノ、水泳、サッカー、野球などを梅田に習わせた。一方でテレビを観るのは平日は夜7~8時までの1時間だけ。しかも最初の10分間はNHKのニュースとした。マンガ本もダメ、食べ物に関してもマクドナルドや炭酸ジュースといった、当時体に悪いとされていたものは一切禁止とした。進路に関しても、父親から言われるがままに工業大学を受験した。しかし現役、一浪、二浪しても合格できず。梅田は専門学校への進学を希望するが、ここでも父親の方針で秋田の関連会社で働くことになる。ところが秋田での一人暮らしが始まると、寂しさのあまり体調を崩し、わずか半年で家に戻ることになる。

「今でいう、うつ病のような状態で、胃潰瘍も患っていました。結局、経営者一家というぬるま湯の中で育てられた甘えん坊だったんですよね。でも人生っておもしろいもので、あれだけ勉強して受からなかった大学に、療養中にすることがなく勉強していたら受かったんです。それで遠回りにはなりましたが、父親の望みであった大学への入学を果たします」

しかしここから先の人生も、すんなりとはいかなかった。そもそも幼いころから工場を訪れるなど家業に対して親しみはあったが、それほど熱中する対象ではなかったからだ。そのため大学の授業は全く興味を持てなかった。キャンパスに通うまで2時間半かかることもネックだった。梅田は次第に学校に行かなくなり、アルバイトに精を出すように。結局、1年で退学してしまう。しばらくは居酒屋でフリーターとして働いていたが、再び父親から声がかかる。「いつまでもアルバイトなんかやっていないで、うちで正社員として働け」と。梅田は父の意見に従い、関連会社で2年丁稚奉公した後、家業に入る。年齢はもう30歳が間近に迫っていた。

しかしここから先も梅田の人生は一筋縄ではいかない。家業に入るも、父親と何度も衝突。「お前は俺の言われたとおりロボットのように動いていればいい」の一言にそれまでたまっていった鬱憤が爆発。「だったらロボットを買ってくればいい」と捨て台詞を吐き、会社を辞めてしまう。

梅田工業には、梅田の母、他3人の兄妹をはじめ、義理の兄弟など多くの親族が働いているが、先の梅田のように経営トップの父親と親族従業員が揉め、辞める、辞めないの話になることがよくあったという。でもそこは家族。結局、これまでは誰も辞めないでいた。しかし梅田は違ったのである。

「幼いころから両親や兄弟から『何でお前はそうなんだ』とか、『お前は私たちと違い頑固で破天荒だ』とよく言われていました。その頑固さが、このときも出たのでしょうね。まわりの説得を振り切り、家を飛び出ました」

生活費があと30円しかない。自分はいかに恵まれた環境にあったかを知る

家を飛び出たはいいが、世間は甘くなかった。冷静に考えれば、梅田のキャリアは家業と関連企業での就労経験しかない。年齢も30歳間近。機械加工関連の商社などへの就職を希望し60社以上受けるが全滅。気づけば貯金もなくなり、手元には30円しか残っていなかった。友だちに食事をおごってもらうなど何とか食い扶持をつなぐと同時に、ここでも再び、自分の環境がいかに恵まれていたかを痛感したのだった。だが父親に捨て台詞を吐いた手前、戻るのも嫌だった。ここでも梅田の頑固者が顔を出した。

「生きていくためには稼がないと」と、梅田は仕事先を選ぶのをやめた。訪問販売の営業、夜の仕事など。お金になること、自分を雇ってくれる先であれば何でもやった。手元にはわずかの小銭だけ。とにかく必死だった。

そんな生活を2年ほど続けていたある日、救いの手が梅田に差し伸べられる。会社の会計士から連絡があり「会社に戻ってこないか」と言うのだ。

梅田が頑固者であることは向こうは百も承知だ。そこで本社ではなく、これから新しく設立するインドネシアの会社の立ち上げをお願いしたいとの話だった。正直、先の見えないアルバイト生活も限界にきていた。でも、謝りたくない。しばらく葛藤するが、最終的に梅田は家に戻る選択をする。しかしこの選択が、梅田にも梅田工業にとっても、その後大きな転機となるとは、当時は知る由もなかった。

何もないところから会社を任されたこともあり、梅田は一人では何もできなかった。まわりの力があってこそ商売はもちろん、人生はうまくいくことを学んでいった。もうひとつ、仕事は選ばない。誰とでもどんな仕事でも、1円でも稼げればやる姿勢も学んだ。そして後者は父親にはなかった思考でもあった。このような考えでビジネスを進めていくと、2年ほどしてインドネシアのビジネスが軌道に乗ってきた。しかしこれからという矢先、父親から「日本に帰国しろ」との連絡がある。苦水を飲む思いだったが、これまでの経緯を考えると、父親に逆らえる立場ではなかった。梅田はインドネシアを後にした。