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『生命保険業は究極のお節介業』 財務と経営を総合的に判断できる生命保険コンサルタントのプロフェッショナル

大塚 伸宏Otsuka Nobuhiro

プルデンシャル生命保険株式会社  東京南支社 第1営業所

エグゼクティブ・ライフプランナー/部 長

家賃1万5000円のプレハブ家に高校生の3兄弟で暮らす極貧時代

大塚は千葉県千葉市で生まれ育った。両親はインテリア関係の商売を営んでいたが、うまくいかなかった。気づけば父親はギャンブルに興じ、家は商売どころか、借金まみれに。さらにそんな状態で父親は蒸発してしまう。残された家族は家賃1万5000円のプレハブ家を借り、母親、姉、一つ年下の弟との4人での生活が原点。

母親は生命保険の営業として毎日夜遅くまで働いていたが、借金取りは容赦なかった。収入は父親の借金の返済に当てられた。家にあった金目のものはすべて持っていった。そんなこともあり大塚家はまさに極貧状態だった。

母親はそんな極貧生活にあっても、3人の子供を元気づけようと、いつも笑顔で明るかった。だが幼いころ、第二次世界大戦における広島への原爆投下で被災しており、体が弱かった。そして大塚が高校2年生のとき、大腸がんを発症。見つかったときは他の臓器にも転移しており、母は1年もしないうち、51歳の若さで他界してしまう。

「母は原爆孤児でしたので、私たちは兄弟3人だけ。学校を辞めて、働こうと思いました。そのことを部活動の顧問に話すと、辞めるなと。最後まで目標を諦めずにやりきれ、大学進学もしろ、俺が面倒を見てやるから、と。まったくの他人の先生からの優しさが嬉しくて嬉しくて……」

他人に優しくされたのは大塚だけでなく、幼少よりプロ野球選手を目指し、野球のトレーニングに夢中になっていた弟もだ。

弟は家から離れた野球の強豪校に通っていた。そのため学校から近い野球部の後援会の方や、地元で会社を経営する社長の世話になっていた。

余命いくばくもない母親は、弟がお世話になっていた社長を自宅に招き、病床のなか、『どうか、このお金であきのり(弟)に野球をやらせてあげてください。』と大塚家の全財産を渡そうとした。母親の夢は弟がプロ野球選手になる事だった。

「何度も何度も、母が渡そうとしましたがその社長はそのお金を受け取りませんでしたが、根負けした社長は『一旦受け取りますが、お貸しします。このお金を3人の子供達の学費に使ってください。』と。私と弟、姉はその光景を、母のベッドの脇で、正座し見ていました。母は最後に人が世に行う礼儀を見せたかったんだと思います。そして、夢を、目標を最後まで諦めてはいけないということも。今もその時のことを鮮明に覚えています。」

周りからのあたたかい支援、奨学金、アルバイト、母親が残してくれた生命保険。結果として、大塚は大学進学を経て先の銀行へ進むことができた。そして弟も、社会人野球を経てプロ野球選手になる夢を果たす。それだけではない、海をわたりメジャーリーガーとしても活躍した。大塚の弟は第1回WBCに出場し、クローザーとして活躍。胴上げ投手にもなった大塚晶文氏である。

「メジャーリーガーの弟にコンプレックスがあった。」 強い信念と地道な努力で夢を実現した弟に対する複雑な思い

頼る親戚もなく、兄弟3人で励まし合いながら、今の成功を手に入れた大塚兄弟。仲もよかったという。ただ今だからこそ話せるが、大塚は別の感情も弟に持っていた。ストレートに書けば、劣等感、嫉妬、葛藤といった兄弟間の比較感情の類いだ。

野球はもともと大塚がやっていた。その姿を見て弟もはじめたのだが、メジャーで活躍するような逸材である。誰が見ても“才能”が違った。ただ大塚が言うコンプレックスは、そのような才能ではなかった。

「弟は幼いころから、将来はプロ野球選手になるとの強い信念を持っていました。そしてその明確な目標から逆算し、今どのような練習をすればいいのか。毎日、熱心に、純粋にトレーニングに励んでいました。明確な目標を掲げ、ひたむきに努力する弟を尻目に、私は特に将来やりたいこともないし、漠然とお金持ちになりたいぐらいしか思っていなかった。そんな程度の自分が何とも情けなくて」

嫉妬しながらも、そこは苦労を共にした兄弟。大塚は、就職活動では、数社の内定をもらっていたが、プロ野球選手という、将来が見えない弟の挑戦を少しでもサポートしたいと、より安定した社会的信頼の高い銀行を選んだ。