story online

全ては顧客の成功の為に。360°最高のシルエットを提供する  ファッションの先にあるサクセスを届けたい。

岡本 英久OKAMOTO HIDEHISA

株式会社ハリースタイル

代表取締役

毎日がサバイバル。売れない営業マン時代〜年間1億円を売るまで

公務員の両親と3つ違いの兄の4人家族である岡本は東京都東久留米市で育った。
父親は小児ぜんそくだった岡本に3歳から水泳や山登り、中学1年の夏休みに四国、2年の時には九州一周を自転車テント泊の旅に連れて行き、体力・忍耐力のアップを図った。そのおかげで幼い頃よりスポーツ好きで、勉強も好きになった。努力すれば自分の能力があがる事に喜びを感じる子だった。高校は東京都屈指の進学校の都立武蔵高校へと進学した。校則のない自由な高校で「自由闊達」を満喫した事がその後の人生を変える事になる。

「赤点もなく、制服もなく、授業が休みの時は自由に外にでて公園で過ごした、屋上や雀荘で麻雀をしてましたね。朝から学校に行ったのは高校1年1学期くらいでした。自由っていいなぁって。完全に自由を履き違えて学業をサボってましたね。大学生活を高校時代に経験した感じです」

大学は、親元、地元を離れて一人暮らしをし、人見知りの自分を変えたいなどの理由から京都の立命館大学法学部へと進学。ブレイクダンス部に所属し、学園祭でチーム優勝を遂げたり、弁護士をめざすセミナーも前向きに受講したが、どちらも自分には合わないと実感。「高校時代に大学生活を満喫」した岡本はサークルやバイトと言ったいわゆる「大学生の生活」に興味が湧かなかった。

そんなときに出会ったのが、完全能力給で洋服の卸業・展示会での婦人服の販売業だった。売れた月で10万円くらいの報酬で、売れない月もあるため、交通費等の仕事の経費を支払うと生活はギリギリだった。苦しい状況にも関わらず、2回生のときに大学を休学までして仕事を続けた。

「まったく売れませんでした。売れなかったから悔しくてやり続けました。それでも全く売れないのです。先輩に牛丼1杯をご馳走になって、不甲斐ない自分に牛丼屋で涙を流す日もありました」と泥沼時代を思い出す。
転機は24歳のときだった。19歳から社会に出て全ての時間を1つの仕事にかけたのに、何の成果もでないうえに、その間に大学は中退…。かたや大学を卒業し、当たり前のように就職し、社会人になった同級生の姿を見て、「1回自分の選択の負けを認めよう」と思い、退職を決意した。

前社で知り合った人の紹介で名古屋に居を移し、営業会社に入社した。大阪時代が嘘のように初月からトップセールスになり報酬は20倍を獲得できた。しかし入社後3ヶ月でその会社は倒産。夢や目標もなくなった岡本は、大阪時代の先輩に電話をかけた。この人物こそがハリースタイルの初代社長だ。

「20代前半はいろいろな人と出会い、良いも悪いもさまざまな経験をしてきた。
でもそれは全て自分の勉強不足が原因。ただ売れない営業時代や負債がある時代の時の方が、毎日がサバイバルで緊張感はあった」

「1つ胸を張れる事と言えば、当たり前なのですが、意地でも取引先には対しての滞納・未納は一回もしなかった事。弊社の負債はそういった未回収金が主だったので、自分はそんな無責任で不義理な事はしたくないと思っていました。経営者になってからの4年間はプライベートの時間や休まる時間が一切なかったので、しんどかったですね。病気をしない強い体に育ててくれた親に感謝しましたね。あとあの時ハリースタイルを「 買い取る」という賭けに勝ったのでよかったですけどね。」と岡本は大きな決断を笑いながら語った。

次のページ: