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「神は細部に宿る」 天賞堂の“音までつくる”ものづくり魂

新本 桂司Nimoto Keiji

株式会社天賞堂

代表取締役社長

バイク、アルバイトに夢中になった学生時代。人と接する仕事の面白さを知る

新本は東京生まれだが、銀座はあくまでお店の場所。実家は目黒・品川と移り住んだ。

「勉強も球技などのスポーツもそれほどできなかったし、特に目立つようなタイプではなかった」と謙遜するが、学校では敵う者がいないほど足が速かった。陸上部に所属し100-400mの短・中距離種目で数多くの大会に参加した。

陸上に熱中する一方で、やんちゃな遊びにも興味を持った。特に熱中したのはバイク。当時流行っていたレーサーレプリカがお気に入りで、友だちと走りにいったりした。ただ新本が通っていたのは私立高校。バイクは禁止されていた。また新本はバイクと同じく禁止されていたアルバイトもしていた。

「両親からあれしろこれしろ、と言われたことはありません。いい意味で自由でしたから。ただ流石に学校で禁止されていることにOKを出すわけにはいかないですよね。ただ自分はやりたいことは何でもやるタイプ。だから内緒でやったんです(笑)」

バイク好きは大学生になってからも続いた。陸上をやめたこともあり、当時の学生らしい遊びに夢中になった。スロット、スノーボード、サーフィンなど。スロットに関しては朝のオープンからお店に並ぶほど熱中した時期もあった。中でも熱中したのがアルバイトだ。

「居酒屋やレストランなどの飲食店のホールでお客様とやり取りしている接客業が面白くて、アルバイトに明け暮れていました。そうして稼いだお金をバイクにつぎ込む。そんな大学生でした」

自由な両親ではあったが、ひとつ、教わったことがある。「英語力」だ。将来必要になると父親が感じていたのであろう。英会話スクールに通い、勉強。おかげで現在も日常会話は困らない。

丁稚奉公後、天賞堂に入社。野球世界大会のチャンピオンリングを手がける

大学卒業後は大阪の美術関係の会社で二年間の丁稚奉公を経て家業に入った。記念品やノベルティグッズを手がける商事部に配属され、天賞堂の強みを知ることになる。

一般顧客は、『天賞堂』と言えば、時計や宝飾品の販売を思い浮かべるだろう。実は天賞堂は、時計・宝飾品と同じくらい、商事部の売上げがあり、戦後からの事業の柱なのだ。顧客先は誰もが知るような日本を代表する有名企業で、新聞社、テレビ局、官公庁とも取引がある。勤続記念の時計や宝飾品、ゴルフコンペの優勝カップや表彰状、各種トロフィー。アクセサリーやピンバッチ、ノベルティグッズなどを手がけている。この歴史ある商事部に入社1年目の新本は配属された。

「MLB(メジャーリーグベースボール)では、優勝したチームの選手や関係者に記念のチャンピオンリングを送る慣例があります。ある第1回野球世界大会からもその慣例が採用されることになり、その制作プロジェクトチームに任命されました。先方のオフィスに何度も打ち合わせを重ね、デザインコンペを経て当社で制作権利を得ました。制作権利を得たのは、優勝が決定する前でしたので、いざ優勝が決定した時はとても興奮したことを思い出します。さらに嬉しかったのは、正確なリングのサイズを測るために選手のもとに訪れ、有名な選手に実際に会えたことです。仕事とはいえ思い出深い場面に出会えました。」

3年後に行われた第2回大会でも、天賞堂はチャンピオンリングを受注。するとそれまで習慣のなかった日本のプロ野球チームでも、チャンピオンリングを送るように。今では日本のほとんどの球団がチャンピオンリングを作るようになり、その多くを天賞堂が手がけている。

(天賞堂が製作したチャンピオンリング)

「チャンピオンリングが流行って以降、百貨店などが参入してきました。ただうちにはこれまでの実績があり、加えてデザイン力や提案力に定評があり、他社と競合しても、当社を選んでいただけることが多いと自負しています。中でも特に評価をいただくのが、値段をあまり意識しない逸品。高いレベルの製作ノウハウが必要だからです」

天賞堂の実績を見ると、依頼するクライアントの気持ちが分かる。歴史あるものでは1964年の東京オリンピックのメダル。最近では国民栄誉賞をダブル受賞した、長嶋茂雄氏、松井秀喜両氏に送られた、純銀に金コーティングを施した記念バットなど。まさに“プライスレス”な逸品の製作に強いことが一目瞭然だからだ。