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「神は細部に宿る」 天賞堂の“音までつくる”ものづくり魂

新本 桂司Nimoto Keiji

株式会社天賞堂

代表取締役社長

銀座本店のビル再建を決意 TENSHODOの新たなストーリーを描く

家業に入ってから5年ほどが過ぎ、外商部を経て、時計・宝飾部門に移り、好きであった接客仕事にやりがいを感じている矢先に、突然不幸は訪れた。父親の自動車事故だ。

当時、銀座の集まりに参加していた新本は、母親からの電話で父の事故を知り、慌てて病院に駆けつけた。すると、ベッドに横たわる父親の姿がそこにはあった。命こそ助かったが、事故の衝撃で頚椎を損傷。全身がほぼ動かせない後遺症を負ってしまったのだ。医師からは今後回復の見込みがないことも告げられた。これまで元気にしていた父親の姿にショックを受けた新本だったが、一方で、会社の経営がある。幸い、父親は声を発するなど意思疎通はできたため、父親と話すと「後はお前に任せる」と。翌日会社に行き、全従業員を集めて父の事故ならびに今後の体制を報告。代替わりの準備など全く行っていない状態でのトラブルであったため、従業員はもちろん、新本も不安な気持ちでいっぱいだった。

ただ天賞堂の特徴として、同族の従業員がほとんどいないことが幸いした。新本が父親の跡を継ぐしかない状況だったからだ。再び病床の父のもとを訪れ、改めて経営のアドバイスを聞くと「お前の好きなように、自由にやれ」と。まさにこれまでと変わらない父親からのアドバイスが返ってきた。

もう、やるしかない。そう思った新本は、父の言葉をそのまま受け入れ、自分なりの経営スタイルで会社を牽引していく覚悟を決めた。そしてここからは経営者の目で、会社を見るようになった。まず気づいたのは、部門ごとの連携が取れていないことだった。これまで紹介してきた通り、天賞堂には3つの部門があるが、それぞれがバラバラに動いていたからだ。

事業所単位で経営を進めること自体はよいと考えていたが、意思疎通や情報は全体で共有したいと新本は考えていた。まずは老朽化したビルの立替という大きな決断をし、そのタイミングでオフィスを移転しそれまで別階にあった各部署をワンフロアにまとめた。そして社長室から全部署、全メンバーの様子が見える配置とした。

同時に、マネジメントも改革した。父親は新本に対してと同じく、社員に対しても自由であった。そのためいい意味で居心地がよく、離職率が低いメリットもあったが、先のように社員一人ひとりが自己判断で勝手に動くデメリットもあった。そこで先述の情報共有に関して、組織全体のルールや規定を設けた。

「たとえばブランディングです。『天賞堂』を統一のものにしたいし、しなければならないと私は思っていました。そこで取材などを受けたり、メディアに紹介される際は、必ず私が一度目を通すように変えました。もうひとつ、これは鉄道模型もそうですが、特に時計・宝飾店舗メンバーに対してですが、これまでは天賞堂のブランドならびに晴海通り沿いの路面店という好立地のおかげで、商売ができている感がありました。端的に言えば待ちの営業で、厳しい言い方をすれば、好条件にあぐらをかいていたわけです。でもご存知のように、現在はインターネット通販の台頭、さらには当社で扱うほとんどのブランドの直営店が近隣に出店しています。このままではいけないとの危機感を一人ひとりが持ち、どうしたらよいかを考え行動に移すことが、これからの天賞堂には必要だと考えています」

将来の事業の生き残りを掛けて、本店ビルを解体し再建することを決めた。そのため冒頭で紹介した天使像も含め、現在(2019/9時点)、銀座4丁目の本店は仮囲いがされ、解体が進んでいる。新しいビルが建つのは2021年の予定だ。新店舗はどのような空間ならびに販売形態になるのか。働くメンバーは、どのようなサービスを提供していくのか。そのイメージは、現段階ではまだ新本の頭の中にシーズとして眠っている。

シーズが発芽し、新本がイメージした店舗・サービスが具現化した暁には、天賞堂のこれからまた長きにわたる歴史が始まるに違いない。そんな新たな歴史のスタートを、仮店舗のビルに置かれている天使像は、楽しみにしていることだろう。

編集・インタビュー:岡本 英久/杉山 忠義 撮影:くさなぎ まこと 

新本 桂司Nimoto Keiji

株式会社天賞堂

代表取締役社長

1976年 東京生まれ
1997年 法政大学入学
2004年 美術関連会社 就職
2006年 株式会社天賞堂 入社
2009年 株式会社天賞堂 専務取締役 就任
2014年 株式会社天賞堂 代表取締役 就任(現職)