不動産は人生を豊かにする。業界20年、1000戸以上の物件を扱った実績から得た確信と責任感
国本 隆宣Takanori Kunimoto
株式会社シーラ SYLA CO.,LTD
セールス本部 副部長
幼いころからリーダー格だがあれこれ言うのではなく、自ら行動し背中で見せるタイプだった
国本は3つ下の弟と共に、川崎で生まれ育った。幼いころから友だちが多く、本人は上下関係などなかったと言うが、仲間内で何かするときは、国本の発案であることが多くリーダー的存在だった。サーフィンやバイクなど。同年代の男の子が夢中になる遊びにも興じたが、中高時代はハンドボールに特に熱中した。中学では関東大会にも進出するほどだったが、高校では先の遊びの方の優先順位が上がってしまい、練習もサボりがちになった。試合に勝てないだけでなく、国本のいい加減な態度を見た顧問から、キャプテン降格を告げられる。さらに気づけば、同級生のメンバーの多くがハンドボールから去っていった。だが国本は辞めなかった。そのときの心境を次のように吐露する。
「意地、でしたね。昔から、一度始めたことを途中で投げ出すのは、嫌いなタイプでしたから。また学生時代の仲間との関係性もそうでしたが、私はあれこれとまわりに指示を出すタイプではありません。だからまずは自分が変わらなければいけないなと。気持ちを入れ替え、部活には毎日参加。他のメンバーの誰よりも練習することでチームの士気を高めていきました」
そんな国本の姿を見たまわりのメンバーは、自然と国本を再びキャプテンとして認めるようになった。試合での結果こそ出なかったが、最終的にはまとまった良きチームだったと、国本は振り返る。
倒れた父親に変わり一家を支えなければ。いとこを頼り、営業マンとして再スタートを切る
高校卒業後はハンドボールの先輩が勤める、建築の見積もりを行う会社に就職した。しかしやりがいや面白みを見つけることができなかった。また父親が倒れたこともあり、国本が一家を支える必要があった。そんな折、スノーボードで腰を骨折し1カ月入院することに。いいきっかけだと国本は転職を決意。しかし当初は定職につくことなく、引っ越し、倉庫作業員、居酒屋など。アルバイトを転々とする毎日だった。
このままではいかんと考えていた矢先に、同じ川崎で生まれ育ち、幼いころから旧知の仲であり、不動産営業マンとして成功してるいとこの姿が眩しく見えた。その人物とは、後に株式会社エスグラントコーポレーションを業界内で最年少・最速記録で上場させ、現在は株式会社シーラホールディングス会長の杉本宏之だ。
当初は親戚に頼るのは嫌だと別の営業会社に入るも、思ったような結果が出ず、杉本を頼ることに。当時、杉本が勤めていた不動産会社に入社、国本が22歳の時である。その後数年間、杉本と同じチームで仕事に没頭した後、杉本の独立を機に国本も同行。そのときの思いを、次のように語る。
「杉本も私も、仕事、マンションに対する想いは、不動産事業に携わったころからずっと変わっていません。上質なものをお客様に提供する。この想いを貫くための独立だったので、迷わずついていきました」
しかし、杉本の会社は最初うまくいかなかった。国本曰く、みなが真剣に仕事をしていないように感じた、とのこと。しかしいよいよこのままではいかんという状況に追い込まれると、メンバーの目の色が変わった。杉本を筆頭に、朝から晩までパワー全開で仕事に没頭。「無我夢中」だったと国本が当時の雰囲気を表現する。
メンバーの頑張りが奏功し、会社はみるみるV字回復していった。業績だけではない。先の理念を貫くために、自社オリジナルの物件を手がけるようにもなった。売上はさらにアップ。オフィスは渋谷の雑居ビルから、現在Amazonなど大手外資企業が多く入る目黒のアルコタワーにステップアップした。
杉本についていってから4年、会社は上場を果たすことになる。余談ではあるがこの上場は当時業界内で最年少、最速記録であり、世間で話題になった。杉本は一躍時代の寵児となり、メディアにも数多く登場。著書も数冊発刊している。