ライフプランナーの成功が豊かさの循環となる 人が輝く支社を全国へ
岡村 幸太郎Okamura Kotaro
プルデンシャル生命保険株式会社
支社長/青山第五支社
フルコミッションへの挑戦。涙の両親を押し切っての転職決意へ
大学生活ではアメフトに没頭、夢だったサラリーマンへの就職活動もしないままに4年生となっていた岡村だったが、アメフト部の先輩からの声がけで日本IBMへの入社が決まった。週末は同社のアメフト部で活動し、平日は営業職として働いた。順調なサラリーマン生活も5年が過ぎた頃、当時加入していた保険の担当者より「人を紹介してもらえないか」と話があった。生命保険の営業職を募集しているのだという。話を聞いているうちに、いつしか岡村の中に、自らも挑戦してみたいという気持ちが芽生えていた。
まず、勤務に対する評価のわかりやすさに強く惹かれた。自分が頑張っただけ評価してもらえ、報酬につながるというフルコミッション制も、自分には合っているように感じた。目標達成のためには、マネージャーがついて指導してくれるというのも心強かった。そして、家族を豊かにしたい、子どもの頃から求めていたものがまさにここにあるという思いがした。生命保険業界をよくしていこうという企業としての志にも共感した。
この業界の未来に価値を感じ、そのミッションを強く信じてプルデンシャル生命保険株式会社への転職を決めた。誰にも相談せず、1ヶ月後には会社へ辞表を出すという素早い決断。事後報告だった両親からは大企業を退職したことに涙の抗議を受けたが、岡村の決意は揺らがなかった。
辞めるしかない 退職の決意が思わぬ転機に ライフプランナーの成果を生み出す独自トレーニングの構築
転職後、1年半ほどは順風満帆の日々だったが、その後は一転、岡村にとって辛いライフプランナー人生となった。この仕事は、商品の良さや意義を地道に伝えていくことで、報酬を上げていくことは決して難しくないという。それでも当時を「どん底」という彼に、一体何があったのか。
「地道な行動の積み重ねで、転職して2年が過ぎる頃には報酬は前職の倍以上になっていました。しかし、この仕事の肝は自己管理。自分で目標を定め、それに向かって行動する。努力した分だけ、絶対評価で年間の表彰を受けられるんです。1年目、その表彰台に立てたことで、自分に奢りの気持ちが生まれたのだと思います。怠け心が生まれ、設定するハードルを自らどんどん下げてしまった。その後の2年間は、目標を達成することができなかったのです。」
自分の不甲斐なさに苛立ちながらもどうすることもできずにいた岡村。実は彼の教育を担当してくれるはずだったマネージャーが、彼の入社後すぐに退職してしまうという不遇に見舞われていた。岡村はなんとか自己流で自分を立て直そうともがいたが、ついに目標達成を果たすことはできなかったのだ。ライフプランナーにとって、いかに初期教育とマネージャーによる伴走が重要なものなのかを、この時身にしみて感じたのだった。
こんな不甲斐ない自分は、この会社にふさわしくない人間なのだとまで思い詰めた彼は、ついに支社長へ退職を申し出た。そんな彼に、支社長は驚くべきアドバイスを与えた。
「お前のような勝ち負けにこだわる奴にとって、今の結果は辛いだろうと思う。だけど、そこまで思っているのなら、だめで元々という気持ちで、マネージャーに挑戦してみてはどうだ。まずはやってみろ。」
自分のことも管理できない者が、マネージャーなんてできるわけがない。しかし、そのまま辞めるにはこんな自分を信じてくれる支社長に申し訳ないという思いもあり、思い切ってマネージャー職への転向を決めた。
マネージャーとして初めてのミーティングで、岡村は支社の仲間に頭を下げた。「これまでの自分のあり方を改め、今日からマネージャーの立場として、心を180度入れ替えて臨みます」と宣言したのだった。そして、その言葉通り一つ一つ実直に取り組んで行くしかないと思い、まずは誰よりも早く出社することから始めたのだった。
また、マネージャーとしてライフプランナーの採用を請け負う傍ら、自分が受けられなかった、理想の初期教育を構築することに邁進した。目の前のライフプランナーたちに結果を出させることに必死だったのだ。自分以上の結果を出す人材を育てたいという思いが岡村を突き動かしていた。そして、当時のライフプランナーたちも見事に結果を出し、今ではマネージャーとして支社長である岡村を支えている。
プルデンシャル生命保険株式会社 青山第五支社 支社長室での打合せ風景:左から岡村幸太郎支社長・平林祐樹(ひらばやし ゆうき)所長・石黒貴也(いしぐろ たかや)所長・守部伸博(もりべ のぶひろ)所長