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ライフプランナーの成功が豊かさの循環となる  人が輝く支社を全国へ

岡村 幸太郎Okamura Kotaro

プルデンシャル生命保険株式会社

支社長/青山第五支社

花形プレイヤーの責任 厳しい勝負の世界での敗北と学び、そして父との和解

岡村は蒲田下町の飲食店を経営する父母のもと、三人兄妹の長男として生まれた。父は寡黙な料理人、母はおおらかな人で、接客担当。2人で店を切り盛りしていた。両親が朝から晩まで働いて、遅い時間に仕込みをして、家族で旅行をした記憶もない。日々の仕事に実直であった両親の姿からは継続することの大切さや、好き嫌いでなく、やるべきことをやるという後ろ姿を見せてもらった。しかし、薄利多売の飲食店経営の大変さを肌で感じ、自分にはできないと思っていた。そして、物心ついた頃から、良い会社に入って豊かな暮らしをしたい、サラリーマンになる、というのが彼の人生の目標となった。

その目標に向かって、中高一貫校を受験し、合格。高校でも、大学を推薦で行くことを目標にしていた。そんな高校生活で出会ったのがアメフトである。身長も高く、運動神経も抜群だった岡村の才能は一気に開花した。クォーターバックというアメフトで花形と言われるポジションに抜擢されたのである。「攻撃の要」と言われる自身のポジションへのプレッシャーは大きなものだったが、まずは自分の責任を果たす、その先に集合体としてのチームプレーがあるアメフトにやりがいを感じていたのだった。そして見事、関西アメフトの名門である、関西学院大学への推薦を勝ち取った。

大学入学後もアメフト漬の日々だったが、3年のときプレー中に負傷。一週間歩けず、その間に自分の守るポジションに入った別のメンバーが一気に調子を上げ、岡村は控えに回ることになった。しかし、腐らずバックアップとして全力を尽くすことを決めた。そして、そんな影での努力にスポットが当たる日が来たのだ。試合中に同ポジションの選手が怪我をし、代わりに出た岡村はチームを牽引。大事な局面での試合で、見事チームに勝利をもたらしたのだった。

そして、アメフト人生の集大成の日、甲子園ボウルの決勝戦。この日も岡村はクォーターバックとして試合に出場するも、シーソーゲームの末、チームは敗北した。「今思えば、負けるべくして負けたんです。その年のチームは、目標を『(全国制覇ではなく)関西リーグ制覇』と掲げていた。だから、関西リーグを制覇してしまったので目標を見失っていたんだと思います。」目標は高く掲げるべきだと学んだのだった。失意の岡村を、試合終了後にサプライズが待っていた。両親が密かに会場へ見に来ていたのである。母も、そして父も泣いていた。相変わらず多くは語らず、「負けたな。」とだけ呟いた父。折り合いが悪く、疎遠になっていた父が店を休んで来てくれた。それだけで十分だった。この応援を力に、この先の人生もしっかり歩んでいこうと心に決めた瞬間だった。